「昆布の歴史」カテゴリーの記事一覧
堺の包丁と昆布加工【昆布の歴史】
乾燥昆布の表面を削る、おぼろ昆布の加工には上質な刃物が必須です。
この加工には大阪・堺の包丁が使われました。
おぼろ昆布は、北海道から運ばれた昆布と大阪の包丁との出合いによって生まれたものとされています。
大阪府堺市は、プロの料理人用包丁の9割以上のシェアを占める有数の刃物産地で、
堺打刃物(さかいうちはもの)と呼ばれています。
堺打刃物は、伝統的な火造り、刃付け、研ぎの手法を完全な分業体制によって作られており、
そのすばらしい切れ味からも多くのプロの料理人の間で絶大な信頼と支持を得ています。
大阪の伝統ある昆布加工には、大阪の伝統技術が深く関わっていたことがわかります。
大阪城築城と昆布【昆布の歴史】
社団法人日本昆布協会発刊の「昆布」という書籍があります。
この書籍の中の、「大阪築城と昆布」の項では、
大阪城築城のとき、石を運ぶのにたくさんの昆布が使われた
水につけた昆布を敷きつめ、その表面のヌメリを利用してその上に石を滑らせて運んだ
といった文章が紹介されていました。
豊臣秀吉が大坂城を築城する際、石垣を築くのに各地から巨石が運ばれた。
運搬には 「修羅」と呼ばれる木製のソリが使われたが、滑りを良くするためにぬらした昆布を敷き、
ぬめりを利用して巨石を運んだという説だ。
「検証はできませんが」と前置きした上で小笠原さんは続ける。
「役目を終えて町に残された大量の乾いた昆布を、もったいないと大坂の商人たちがしょうゆで煮た
ところおいしいダシが出た。それを機に昆布文化が 定着したとの話です」
老舗うどん店「道頓堀今井」の今井徹社長に聞いた。
「海藻類を使って巨石を運んだ例は 他の地域の城にもあるらしい」といい、「大坂城築城の後に、
海藻をいったん干してから炊くという調理法が定着したかもしれません」。
そして江戸時代に入り良質の食材が大阪に集まったため、おいしいダシの出る北海道産昆布を
味の基本とする食文化が定着したと考えるとつじつまが合う。
過去に昆布がこのような形でも利用されていたとは驚きのエピソードです。
昆布森地区【昆布の歴史】
3月29日はまりもの日です。
1952年のこの日に北海道阿寒湖のまりもが国の特別天然記念物に指定されたからだそうです。
さて、阿寒湖のある釧路市のお隣、釧路郡には昆布森地区という場所があります。
かつては昆布森村という村でしたが、統合された現在も地区として名前が残っています。
昆布森地区の沿岸約40キロのほとんどが昆布漁場で、地名のとおり「昆布の森」となっており、
水揚高も全体の約3分の1を占め、主に関西や関東方面へ出荷されています。
この地域で採れる昆布は「長昆布」が大半を占め、北海道の東海岸で採れる昆布です。
名前のとおり長いものは15メートルにもなる世界で最も長くなる種で、早く柔らかく煮えるのが
特長で昆布巻や佃煮・おでんなど煮物用の食用として最適です。
なかでも、昆布が成熟する前の6月までに採られた「棹前(さおまえ)昆布」は、身薄で柔らかく、
高級昆布として取り扱われています。
(昆布森漁業共同組合ホームページより)
法印転衣式【昆布の歴史】
高野山真言宗・総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)で3月14日、法印転衣式(ほういんてんねしき)が行われました。
法印とは、弘法大師の名代として、高野山内の重要な法会(ほうえい)や儀式の御導師を務められる役職のことで、任期は1年だそうです。
高野山内外に、その御就任を披露されるのが「法印転衣式」と呼ばれる行事です。
真言宗では古くから重要な儀式の折には「松三宝(まつさんぼう)の儀」が必ず行われています。
若松に梅の枝、笹をつけて松竹梅とし、その周りにお米を洗わずに山に盛ります。
そして昆布を楕円に切ってその上に並べたものを、松三宝と呼びます。
この松三宝から、年長者より一人ずつ昆布一枚とお米を数粒頂く行事を、松三宝の儀と言うのだそうです。
ちなみに例年、この法印転衣式が行われる日はとても冷え込むと言われています。
本年も違わず、とても寒い中での式だったようです。
金剛峯寺で転衣式<読売新聞>
昆布を広めた天下の台所大阪【昆布の歴史】
かつて日本中に豊かな物資を運んだ北前船は、江戸時代に入りどんどん航路が開発されていきました。
北前船の西廻り航路は、北陸以北の日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海に入り、
最終的に大阪に物産が集められました。大阪商人によって集めた物産を独自の技術で加工を施し全国にさばくことで名実ともに物流の要になりました。
大阪が「天下の台所」と呼ばれた所以です。
もちろん大量の昆布も北海道から集められました。昆布問屋、手すきの昆布を専門にするもの、加工昆布の専門、小売り店と昆布を扱う業者も増え専業化されていきました。
大阪の職人たちが昆布を食べやすく加工したことで、昆布は庶民の食べ物としてその人気を広めました。
何百年も続く昆布加工の老舗が大阪に多いのも、この理由からです。
天下の台所大阪が作り上げた昆布加工の確かな技術と誇りが、現在も息づいています。
昆布川柳コンテスト【昆布の歴史】
昆布の日(11月15日)のイベントとして昆布を題材にした川柳コンテストが実施されていて、
その優秀作品が発表された旨の新聞記事をご紹介致します。
昆布を通して家庭の安心感を感じる川柳、昆布のだしの深さやうまみと人生をかけている川柳が多く、
全体的にあたたかくてほほえましい印象を感じます。
日本人が昆布を身近に感じていることがよくわかる、とても素敵な作品ばかりです。
第3回「昆布川柳コンテスト」
昆布の消費量日本一【昆布の歴史】
昆布の国内生産量はほとんどが北海道から採取されており、全体のほぼ95%に相当します。
ですが昆布の消費量が日本一の都道府県は、意外にも北海道ではなく、富山県なのです。
富山県に昆布を運んだもの、それは、江戸時代から明治時代にかけて日本海を往来して商品を運んだ北前船(きたまえぶね)です。
北前船は、富山から米や味噌を北海道へ運び、北海道で昆布やニシンなどを積んで帰港しました。
さらに昆布は富山の薬売りによって薩摩へ運ばれました。そこから琉球や中国にまで運ばれたそうです。
今では日本中で食べられている昆布〆も元々は、北前船が持ち込んだ良質な昆布と、富山湾の魚介が融合して出来上がった富山の郷土料理だそうです。
今日、私達が美味しく昆布を食べることができるのも、昆布を運び、昆布に親しんできた富山県の方々とも言えます。
昆布の流通で日本中に昆布を広めた富山ですが、大阪はといえば天下の台所といわれた頃、昆布加工の技術を発達させていきました。佃煮の塩昆布、乾燥塩昆布のしおふき昆布は大阪の代表的な昆布加工品となっています。
→「昆布を広めた天下の台所大阪」
参照元:総務省統計局 「都市階級・地方・都道府県庁所在市別1世帯当たりの支出金額,購入数量及び平均価格」
昆布と縁起【昆布の歴史】
いにしえの日本では昆布を「広布(ひろめ)」と呼んでいました。
これは昆布が幅の広い海藻であったことから来ていると言われています。
この「広布(ひろめ)」という語意や発音から、「広める」や「お披露目」といった、縁起の良い言葉に通ずるとして、
昆布はおめでたい席には欠かせないものとなりました。
また「昆布(こんぶ)」という言葉も「喜ぶ」に通ずるので、とても良いとされています。
このように昆布製品は、慶事の品やご贈答品、またお中元やお歳暮の際にも喜ばれる品でございます。
おめでたい日に、心を込めて昆布の贈り物を贈ってみてはいかがでしょうか。
昆布と日本人の深い関係【昆布の歴史】
「せんとくん」で一躍話題となった、2010年に行われた、奈良の平城遷都1300年記念事業は
記憶に新しいですが、実は昆布の歴史も奈良時代と同じく古いもので、日本人の生活と深く関わっています。
初めて「昆布」が本に記されたのは、奈良時代の歴史書「続日本紀」とされています。
「続日本紀」によると、
「715年(霊亀元年)、蝦夷(現在の東北地方)の須賀君古麻比留から昆布が朝廷に献上された」
という記述が見つかっています。
朝廷に貢献をするということは、昆布がとても貴重なものとして扱われてきたことがよくわかります。
715年というと奈良時代の初期にあたります。
「先祖以来昆布を貢献していた」という記述もあるそうなので、
もしかしたら昆布と日本人の関わりはもっと古いものかもしれません。

